オフィス今岡

「自分らしく生きる」ことを支えるアサーションをテーマに、研修・ワークショップ・執筆を行っています。

誰かと話す時間を取り戻す~9月30日という日に

話をすると、その人の意見には反対(「意見が違う」も含めて)だが、その人を信頼はできる・・・そういう人を思いうかべることができるだろうか。

 

信頼している人が「それを言うのは(やるのは)マズイよ」ということを行動化したときに、「それはマズイ」とはっきり伝えられるだろうか。

 

巷で聞こえてくる「心理的安心安全」は、何を言ってもいい、否定されない場をつくるだけでは不十分で、その前提に「他者の人権を侵さない限り」があってこそだ。

 

ある人が教えてくれた。外国の方も参加するワークショップなどの場においては、ファシリテーターの感性、アンテナ、人権意識がとりわけ求められる、と。何故ならば、気づくといつの間にか発言者の人種、性別が偏っていたりすることがある、と。

 

日本において「心理的安心安全」はどんな扱いをされてきただろう。

 

今ここで起こっている出来事に気づけない、気づきたくない、気づこうとしない、場合によっては見て見ぬふりをする。そんなことがある。

「みんな一緒に」「一枚岩で」「一丸となって」など、チームの結束を無条件で「よし」とする風土、文化、空気を強く感じるところでは・・・意見は言いにくくなるのはある意味当然かもしれない。言わない方が「わきまえている大人」だと、わきまえる(つまりもやもやしても、なんか違うんだけどなと思っても、マズイと思っても口にしない)。

 

しかしこれはチーム・団体・組織そして個人にとっても、リスキーだ。

自己チェック機能をフル稼働しないと、気づかないまま少しずつ「よどんだ職場(環境)、換気の悪い状態」になっていきはしないだろうか。そしてそれは、問題が出てきてからでは傷が深くなり、状態が悪いときには更に言いにくくなる。

 

実は「うまくいっている時」が「マズイよ」「それはあかん」と言えるチャンスなんだと思う。

人が見ているものは違うし、その人にはその人の理解や解釈がある。出し合わないとわからないが、それを出し合う機会は自然にはやってこない。

誰かが誰かを誘って(声をかけて)、考え・意見・見えているものを出し合うと違うことに気づく。そんなふうに見ていたのかと知ることになる。場合によってはマズイことも出てきて、一緒に困る・・・そんな話し合い、対話の場がここ2年、極端に減っていっていた。当然一人で考えることが多くなっていた。

 

今日で緊急事態宣言は全都道府県が解除となる。

 

まだまだ「密」を気にかけなければならない。が、誰かと話す時間を少しでも取り戻せることを期待したい。

 

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