オフィス今岡

「自分らしく生きる」ことを支えるアサーションをテーマに、研修・ワークショップ・執筆を行っています。

話し手を中心に置き続ける~ナラティヴと出会い、知ったこと

「相手の話をきちんときく」というのは、「自分の気持ちをきちんと伝える」ことと同じくらい難しいものだと感じる出来事が続いた。

 

それは人の話を聴くことを専門(仕事)としている人であっても。

もしかしたら、だからこそ難しいのかもしれないが。

 

自分はできていると思っていないことは断ったうえで書いてみたい。

 

先日、人間関係のトラブルに巻き込まれている人の相談において、時間の制約がある中で本来なら話を聴く側が朗々と話し続けるという場面に立ち会った。たぶん、話し続けていることに話を聴く側の本人は気づいていなかった。「その人のことを思って」いるのはよくわかった。ただ、「相手の言葉を待てない」そんな風にも見えた。そのようなとき、どのように働きかけて、当事者を中心におく会話を取り戻せたのだろうか。側にいるものとして、何ができきるのかを考えたが具体的行動に移せず、情けない自分に苛立つ経験をした。

 

話し手が口にした言葉は、聴く側がその言葉を留めようと意識しなければ流れてしまうことがある。聞く側が言いたいことを考えていると、ましてや話していると、本来の話し手が発した言葉を聞き逃してしまうし、その背後にある、言葉にならない思いや事情に光を当てる可能性をも狭めてしまうのではないか。そんなことは分かっているはずなのに、それでもついつい聴く側が話してしまう。話し手が中心に置かれない、そんなことが起きてしまう。

 

思いあたる。これまで、たくさん、思いあたるし、思い出す。

 

傾聴、アクティヴ・リスニング、共感など、人にかかわる支援場面でよく聞かれる考え方、技術は実に幅広く伝えられ、訓練を受けている人も多い。

数年前に出会った「ナラティブ・セラピー」「ナラティブ・アプローチ」が大事にしている人に向きあう姿勢は真っすぐだ。当事者が中心にいることだ。これまで学んできた様々なスキルと呼ばれるものが、自分の中で覆ったり、大きく変化した。その1つが「当事者(語る人)を中心に」だ。

その人の語りを奪わない。

耳をすませる。

聞こえてこなかったことにも耳をすませる。

ひょっとしたら聞き逃したかもしれない声にも耳をすませる。

語られなかった声にも耳をすませる。

 

人の言葉を大切にする、ということがどういうことなのかを教えてもらっている。

 

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